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JR横須賀線 横須賀駅 ホーム上屋 |
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| 久方ぶりに、横須賀駅へ降り立った。何年ぶりだろう・・・。 前にきたときは、まだ山側の電留線が健在で、153系の低窓車が留置されていたのを撮影にきたんだっけ。 あのときのネガをひっくり返してみたが、ホームや駅舎のコマなんぞひとつもありゃしない。逆にUS,NAVYのフリゲート艦に、原潜のカット。何撮りに来たんだか・・・。 それはさておき、横須賀駅。小生にとって、何とも懐かしい親しみのある駅である。横須賀には婆様の姉妹が住んでいたせいもあり、子供の頃何度も足を運んだが、お目当ては別にあった。戦艦「三笠」。爺様が軍艦マニアだったせいもあり、ホントにここにはよく連れて行ってもらった。 大船で横須賀線に乗り換えると(70系だったような気がする・・・)必ず座るのは、進行方向左側の席。座れないときは、ドアにへばりついていた。なぜならば、左側からしか海がかいま見れないからである。鎌倉を過ぎ、逗子も過ぎて京急をくぐるとすぐにトンネル。ここから小生のワクワク度は高まる。トンネルを抜けて、田浦の駅にさしかかると、ここからはもう心臓ばくばく。 田浦を発車してトンネルを抜けて、横須賀に到着するまでが最高潮。なぜなら、この区間でしか、日本海軍の末裔、海自の護衛艦がみられないからである。艫を接して、小振りの主砲に少し仰角をかけ、安浦の岸壁にもやっている姿。特に旭日の護衛艦旗でも目に入ろう物なら、その日は一日ご機嫌だった。といっても、あくまでも「三笠」が主目的なのだが、こちらはあまり興奮した覚えはない。むしろ、はしゃいでいたのは爺様だったような。 青い海と、深紅の旭日旗。それを目にしたあと、横須賀駅のホームに降りたつと香ってくる潮の香り。改札を抜け、薄暗い駅舎ホールの外には、青い海が光りそこにはあこがれの軍艦が浮かんでいる。そして目前の岸壁へゆく数歩の間でも、その骨格をかいま見せてくる、あの圧倒的な威圧感を持つ横須賀のシンボル、ガントリークレーン。海端にたって、必ず爺様から同じ講釈を聞かされる。「のりかず。ほんとに大きなクレーンだよな。あのガントリークレーンはな、すごいんだぞ。戦艦陸奥をあそこでこしらえたんだ。若い頃、俺はあそこで、陸奥を作っているのをみたことがある。すごかったんだぞ・・・」。幼い頃にすり込まれたものは今でも変わらない。これが小生の横須賀の印象である。 だから、久方ぶりに横須賀駅のホームに降り立ったとき、同じようなデジャブにとらわれるかと思ったが、そんなことはなかった。今の興味は、「旧式の名残り」でござい、というわけで、すぐにホーム上屋に目がいく。ガントリークレーンと比べればはるかに華奢なレールの列柱が改札口にむけて列をなしている。クレーンもレール柱も素材は同じ「鉄」。共通点といえば、そんなところか・・・。 田浦よりのホームの端から、パシャパシャと写真を撮っていく。上屋の田浦寄り端には何とも柔らかい意匠を施した幕板がしつらえてある。今じゃ絶対にお目にかかれない意匠の仕方。この幕板をホームの内側から、はたまた外側からといろいろな角度で撮ってみる。不揃いながら鋸で丸く手整形された板きれの一枚一枚が、抜けた空を背景に自己主張している。これを意匠した設計者と作った職人の心意気、90年あまりの歳月を経て、今なお矍鑠としている。たまたま今日は、側線に189系の特急型も昼寝していることだし、20世紀初頭のデザインと21世紀初頭のデザインのを一緒に撮り込んでみますか・・・。意外としっくりくるのが不思議ではある・・・。 古レールを柱に再利用したホーム上屋は数々あれど、ここ横須賀駅のホーム上屋はちょっとレアなケースである。たいていの場合、柱はレールを背中合わせに溶接ないしは錨止めし、強度を増した2本1組の物が多いのだが、横須賀の物はレール1本。屋根を支える梁組も接合部をのぞいて1本組。先端の方は一部Y字型の柱となっているが、ここの構造もおもしろい。なにより一目見て、構造材はレールとわかる。1本1本は何とも華奢に見えるが、これが改札のある駅本屋まで37×2で74本(正確にはY字5本、門型1対32×2で64本、本屋脇軒屋根4本)ずらっと続いているさまはちょっと壮観である。 開駅は明治22年(1889)6月16日。駅本屋自体は現在三代目で昭和15年建築のものであり、大正3年(1914)に竣工した2代目駅舎の面影を色濃く残すと言われている。大正時代の絵はがきをみるとこの長いホーム上屋とおぼしき物が電化前の2代目駅舎と一緒に写り込んでいることから、同時期に作られた物だと思われるが、確証に欠ける。古い時代の駅の写真によく写っているような、改札前ホールの幕板形状などから見ても、少なくとも3代目駅舎よりホーム上屋と改札前ホール部分は古い物と思われるのだが・・・。 この幕板の右側のレール柱に「建造物財産票」があるのだが、自販機が邪魔してはっきりと判読でない。「−2年」とまでは読める。可能性として判読不明の部分はT2・T12のいずれかが入ると思われる。T2であれば、2代目駅舎と同時期なので電化前の蒸気時代に2代目駅舎と一緒に竣工、T12であれば、電化工事に伴って設置されたことになる。ただ、T12の場合は少し不自然に思える。なぜなら、ホーム上屋根を無理矢理突き抜けて梯子形架線柱がホーム上に設置されているからだ。電化工事とワンセットで設置されたならば、もう少しすっきりと一体感をもって工事がなされると思う。ちなみにこれらの架線柱にはT13(Tは大正のT)の建柱票がついている。 大正13年(1924)といえば、横須賀・東海道国府津口の電化がなされる1年前。電化に際してホーム内にも架線柱を建てなければならず、そのとき既存のホーム柱を利用して架線柱に見立てたとすると表記は「構内副 T13」となる。事実、この架線柱のある柱の部分は他の柱と継ぎ部分が少し趣が違っているし、屋根を突き抜けて設置されている前出の梯子形架線柱は、ホーム柱が門型からY字型に変わった場所にあり、このY字柱には加工ができなかったので独立した架線柱を建てざるを得なかったのではないか。電化関連の改造箇所をのぞけば、やはりこのホーム上屋は2代目駅舎と同じ時期に竣工していた、つまり財産票の判読不明部はT2なのでは、と思うのだがいかがだろうか。 その証拠となるかはわからないが、柱を構成しているレール自体もまた骨董品だ。小生が確認した物は「UNION D 1885 N.T.K」と刻印があった。このレールに限って言えば、ドイツドルトムントのウニオン社製、発注元が現在の東北・常磐線のルーツ、日本鉄道となる。輸入後25年を経て使用中止、鋼材として再使用されたとすれば、ちょうどつじつまは合う。ほかにも、キャメル(英国チャーリーズ・キャンメル社)・バーロウ(英国バーロウ赤鉄鋼製鋼株式会社)といった銘柄もあり、国産の極初期レールである官営八幡製鉄所1903年製の物もあった。 柱を観察していると、上屋屋根に目がいった。ちょっとびっくり。今まで全く気がつかなかったが、軒のレール梁の末端部分に、梁押さえの意匠が施されている。三角に切った垂れ板をおさえ飾りに使っているのだ。しかも外側からのぞくと、四角錐とおぼしき飾り板までついている。大正期から昭和初期にかけて竣工した駅で、上屋の軒先に飾り板が残っているホームを持つ駅を今でも見かけることがあるが、どれも連続した意匠で、横須賀駅のものより意匠が派手だ。それらに比べるとなんと清楚。細工はつましく、さりげなく、それとなく見せるのが粋というところか。 ここでふと思ったことがある。横須賀駅のホームって上屋の新築部分が無いな・・・、である。今ではどこの駅でもホームの端から端まで上屋がかかっているのはごく普通だが、戦前はもとより戦後のある時期までは、ホームの上屋は跨線橋前後に申し訳程度についているのが普通だったように思う。それもかなりの大駅でもである。近年になって旅客サービス向上のため、かなり小さな駅でも、上屋を増築延長するようになったのだ。それがここ横須賀駅では相当初期の頃からすでに上屋が完備されていた。それはなぜか。横須賀線の敷設経緯と大いに関係があると思われる。あくまでもコレは小生の推論だが。 ご存じの通り、横須賀線は旧海軍の発案で敷設が検討され、海軍に遅れてはならじと陸軍も参画し着工、完成された。横須賀という地自体、徳川開国以来、帝都を守る国防の要であり、戦前ここにおかれていた横須賀鎮守府の長は、他の鎮守府をさしおいて、海軍三顕職にも匹敵する格を持っていたといわれるほど重要視されていた土地だ。そんな理由からか、当時の横須賀駅長は、軍政官であったという。では、横須賀の地に関連の深い旧軍の最高位者と言えば誰か。それはとりもなおさず大元帥である天皇陛下であった。というわけで、新艦艇の進水式やら海軍関連行事やらで、大変陛下の行幸は多くなる。横須賀への行幸は当時は当然、お召し列車で行われる。それは明治・大正・昭和歴代天皇でも変わらなかった。 お召し列車を仕立て、列車が到着するとなれば、海軍高官や随員、皇族方やお付きの尉官も多く来都する。また、お召し列車に限らず、多くの将官も来駅しただろう。天皇陛下を始めこれら高位の人々を、雨で濡れ祖ぼらすことはできない。いきおい、ホームは上屋でフルカバーせざるを得なくなる。こうして、地方の中堅駅であった横須賀駅は、他の同クラスの駅とは違い、ホームに堂々とした長い上屋を持つことになったと、想像できる。同じような例で、舞鶴や佐世保、大湊や呉なども駅のホームの構造がそうなっていれば、この推論もあながちはずれではないだろう。ただ、ここで間違ってはいけない。この上屋はあくまで高位者や軍関係者のために作られたのではないかと言うことを。地方人(当時は一般人のことを区別してこう呼んだ)のためにしつらえられたものではないのだ。 それともう一つ、ホームから改札まで階段がない点が人に優しいバリアフリー構造として評価され、横須賀駅の紹介コメントとして取り上げられることが最近多い。この構造も元はといえば、陛下が来駅されたときに陛下の上に立つ者がいないようにとの配慮から生まれた構造だとも言われたりしている。こんなところにも、陛下の行幸と横須賀駅の関係をかいま見ることができるだろう。ただ、小生はこの説についてはいささか?である。 ちょっと横道にそれるが、駅の構造は結果的にそのような風説が生まれるような形になってはいるが、久里浜開通までは横須賀線は横須賀駅が終着点であり、終着駅は頭端式の駅が多かった。古くは横浜、新橋、上野しかり両国しかりである。また、貨物のヤードを旅客ターミナルと一緒に設置できる通常駅と違い、横須賀駅は防諜上の問題から軍港向けの貨物は旅客ターミナルつまり駅舎やホームとは別に設ける必要があった。事実、軍港岸壁への引き込み線は、駅手前にポイントを置き、直接これらの貨物及び軍港自体も高い塀によってホーム・駅構内はもとより、駅前広場からも覗くことはできない構造になっていた。なにより、駅先はすぐに海という立地も忘れてはならない。 駅先に引き込み線を延ばす必要もなく、行き止まり式の終着駅であれば、ホームから改札までの構造は乗降の便を考えて跨線橋なし、階段なしのフラットな頭端駅となるのは至極当然であると思う。それともう一つ、前述の防諜面でも乗降口をホーム端の一カ所に集約すれば軍都に駅を通じて出入りする人々を効率よく監視することもできる。監視カメラなど無い時代、改札口や駅本屋からホームを見渡すのに、段差がなければなおさら都合がいい。ん、そうか、だから終着駅で着発列車本数が多い割に、開業当初から番線が2・3番しかなく、ホームが一面二線なのか・・・。一番線は機関車の着回し線や客車の留置線として使用すれば、塀との間の緩衝帯としても利用できる。もちろんホームは意図的に設置しない。 となると、なぜホーム上屋の柱が一本レールの華奢な細柱で、中柱の無い構造なのか合点がいく。ホームの端から端まで障害物無く見渡すため。すべては防諜と監視のための構造か。中柱が無ければ、陛下も歩きやすいだろうし、警護の者も人垣を作ることで警護がし易い利点もある。おまけに改札前のホールを支える大きな鋼板製の梁は、ホールに視界を遮る柱を立てずにホーム上屋と駅本屋の屋根を支えるための工夫?。うーむ、こうして思いを巡らしてみると、やはり横須賀線と横須賀駅は軍のための軍の駅だったというところに行き着くか。そして、長い大きなホーム上屋は、軍高官を迎えるための設備。軍都に設置された駅とはいえ、これほどまでに軍の影響が色濃く残る駅も無いだろう。 二一世紀の平和な現代に、取り残されたように静かなたたずまいを残す横須賀駅。駅舎を一歩出ると、過去の残滓の目隠し塀の向こうに、これまた過去と同じく、塀越しに見えていたであろう軍艦(今は自衛艦だが)のマストが2本、顔をのぞかせていた。今、こうして穏やかな風景の中にたたずんでいると、二度とホームに軍靴の響きがこだますることが無いように祈らずにはいられない。「人に優しいバリアフリー駅」として、今現在は一般庶民に評価されているのだから・・・。 追記: 構内にある古めかしい架線柱は、横須賀線電化時(T13 大正13年)に建植された架線柱です。大船以南に残っている電化時の架線柱とは少し趣が異なるタイプです。補強材を筋交い状にしたはしごのような形状は、似たような形の古い架線柱として田町電車区に現存する物と近いような気がします。なお、1・2番線の突端にある架線エンド柱は構内のはしご状架線柱をそのまま架線の引っ張りに抗するように角度をつけてコンクリートで固着し、架線を支持したおもしろい物です。1番と2番の支持柱の傾き角度が違うのもおもしろいです。 |