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JR東日本 神田駅(中央下り線側) 大正3年?建植 架線柱 (巻1) |
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| 最近、読者の方からメールをいただいた。本職の方だという。メールの文中に、「架線柱は一本一本名前がついていて(構何号とか)、建てられた年月も書いてあります・・・」の一文があった。また、「中央線の神田〜お茶の水間には、大正15年製の架線柱がまだ数本残っています。10年前にはたくさんありましたが、もうあとわずかですね」とも記されていた。この二文で俄然、復活古物探しに勢いが付いた。これは訪れるしかない。おっとりデシカメで早速現地を訪れてみた。 東海道線からあえて山手線には乗り換えず、敬意を表して中央線ホームへ。そしてまず、神田駅を訪れてみた。電車からホームに降りるとすぐに2本対になった架線柱が目に入る。この架線柱も結構古いはずだ。なぜなら、柱の補強材の固定にリベットが使われているからである。古いものでも、時代の下がったものは、柱の内側から、ボルトナットで組み付けているものが多いのであるが、ここの柱は違うのである。 ここまでは、いつもここを通過するときにチェックはしていた。教わったとおり、プラ製とおぼしき銘板を見てみると、これが「T3」と記されている。あれ、M氏のメールではT15もしくは1926のはずだけど・・・。他にも同じ形態の架線柱が構内に5本ほどあるので、くまなく調べてみると、果たして、すべて「T3」であった。どうやらこれは氏のメールにあった大正15年製のものよりさらに古いもののようだ。 が、ここではたと迷ってしまった。あれ、中央線が万世橋駅〜東京停車場まで開通し、同時に神田駅が開業したのは1919年、つまり大正8年3月1日。このとき、同時に山手線の変則「の」の字運転が始まったのでは・・・。架線柱の銘板通り「T3」では、5年間のずれがある。????になってしまった。それにもし「T3」が本当とすると、東京駅に残る、「数珠玉」装飾付きの架線柱と同じ時代のものになるのだが、何となく、太さといいデザインといい、違うもののような気がする。 当時、高架線はすでに立ち上がっていて、列車は走らないけれど施設は完成済みだったのか。はたまた、ただの表示違いなのか。あれこれ思いつつ、駅の外から眺めてみようと、改札を抜けた。ここでちょっとびっくり、当然のことながら、架線柱は1対2本とも、基礎は高架の土台に植え込まれているものとばかり思っていたが、なんと、外側の1本は高架下の地面に基礎がおかれて、ここから建てられているではないか↑。何で駅間の部分は高架に基礎を置いて、架線柱が建てられているのに、この駅部分だけ外付けされているのだろう。またしても????である。 またまた、推測を巡らせてしまった。撮影した写真をよく見ると、線路側の架線柱は基礎が高架にあるため、建築限界の関係か、根本が「く」の字型になっている。また、どういう訳かホーム上屋側に対になる柱が存在しない。したがって、ビームが渡せないため門型に架線柱が建てられず、片持ち式の形態をとらざるを得なかった。こうなると、1本の柱では架線の引きや柱が立っていること自体強度が不足するので、後付で補強のために、地面から支えの柱をもう1本建てたたのではないか、等々・・・。 でも、なぜこんな無理な柱の建て方をしたのだろう。単純に、ホーム部分に親柱を建て、ここからビームをのばして架線を吊ればいいと思うのだが。ただ、こういった柱の建て方をしなかったためか、神田駅の中央線ホームは視界を妨げるものが無く、今でもホーム中央に置かれた飲料水の自動販売機やベンチが無ければ、とても重厚で広い印象を受けるだろう。年代の件といい、この建て方といい、何とも楽しい謎を提供してくれる架線柱だ。 さて、神田駅の検証を終えたら、そのまま電車に乗ってお茶の水方面に行こうとも思ったが、ここで、何ともこのガード下の雰囲気に飲まれてしまった。ご存じ、神田駅下のガードは品川と並ぶ、安ーい一杯飲み屋街。30年代の雰囲気そのままに、21世紀のビジネスマンが闊歩する、サラリーマンの街だ。お昼休みで食事処へ向かう彼らを横目に足の向くまま、高架下を東京へ向かって歩いていくと、そのうち人通りも少なくなり、道端に小さな屋台がそっと置かれている。煤けた、高架線の赤煉瓦の陰に隠れて、夜の出番を待つまでの、つかの間の昼寝の時間・・・。まぶしい光をさけるように、ちょこんと置かれた姿が何ともかわいげで、1枚写真を撮ってしまった。(巻2へつづく) |
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