:JR中央線 武蔵境駅構内
架線柱

中央線での「見つけ物」その2は、これまた架線柱である。といっても、最初に目に付いたのはこちらの方である。

つい2週間ほど前、会社の上司に不幸があり中央線に乗る機会があった。その途上、電車の窓から何気なく外の景色を眺めていると、この架線柱が目に付いた。「えっ、まさか・・・」である。ここのところ、小生、桜木町界隈を良く歩いているのはご承知の通りである。当然、このあたりの昔の写真を目にすることも多くなり、そんな写真の中に2代目横浜駅のものもあった。

この写真、関東大震災で焼け落ち、廃駅移転となる前の2代目駅を京浜線電車ホームから撮影した写真であり、煉瓦造りの2代目駅舎と電車、架線柱が一緒に写っているのであるが、ここに写っている架線柱が今、目にした架線柱と瓜二つなのである。というより、同じものだろうと思う、いやそう思いたい。

京浜電車線開通が大正3年12月、横浜駅2代目駅舎(この写真の電車ホームが開業した)開業が大正4年8月である。この古い写真は「東京横浜間電気工事記念写真帖」という写真集のものだから、開通当時に撮影されたと見て間違いない。

また、中央線の複線電化が国分寺駅まで完成し、電車が走り出したのが大正11年11月であるから、今、武蔵境駅にある架線柱が本当に当時のものであるなら、先ほどあげたように形態的にも大正時代、中央線が現在のようにインターバーンとして確立するもととなる、近郊電車が走り始めた当時設置されたものが残っていることになる。駅舎や跨線橋と言った不動の大型構造物が残っているのはわかるが、消耗品に近く耐用年数の短い当時の架線柱が残っているとすると、小生にはちょっと感動物である。

武蔵境駅の架線柱の形態をよく見てみよう。鋼材を向かい合わせて2本、親柱として三角に組み、その間に横に7本(横浜駅の方は6本、が武蔵境駅の方は基礎直結の段がありボルト止めで親柱が積み上げられているので基礎部分を抜くと6本、それと横浜駅の方は親柱が直接基礎に埋め込まれているように見える)の横梁が渡されており、その梁の間に×印の補強材が入っている。頂点に近い隙間の部分にもこの×印のアングルは入っており、この特徴も古写真と全く同じである。

ビームの取り付け位置が横浜駅の方が高いように思えるが、コレは武蔵境駅の物と比べ背が基礎分低いためだろう。複線線路間に車両限界どうしのスペースがとれない駅構内に設置するため、縦方向に建てられている点も同じである。こうやってみてみると、益々今に残るこの架線柱が、電化当時の物に思えてならない。

ちなみに、この架線柱、写真の物の他に、上りホーム立川方端に横向きに設置されたものが1基、これも駅から踏み切りを隔てて立川方向に門型の一対も含めて、他にも何本か現存している。しかし、先に述べた中央線の高架化工事区間にモロに当たっているため、たぶん数年後には消滅してしまうと思われる。というより、仮線路への移行時にはもう無いだろう。なんと、もったいない・・・・。

追記2:
2003.11.03に確認しましたところ、かろうじてこのポールはすべて現存しています。ただ、いずれも撤去構造物の敷地にに建っていますので、消滅は時間の問題と思われます。なお、架線柱に取り付けられている建植票には1931.06の標記がありました。昭和6年と言うことになりますが、この年代ですと角柱タイプの架線柱が普及し出した時代ですので、建植し直しか、付加品改造の年月と思われます。それともう一つ。現在使用されているハシゴ型のビームをこの架線柱に取り付けようとすると、向きを線路と直角から並行方向へ建植し直さないと、非常に取り付けずらいのではとハタと気が付きました。たまたま、この写真の柱はビームが1本棒タイプだからオリジナルの向きか。そうか、だから残っているこのタイプの架線柱はみんな向きがオリジナルと違うんだ・・・。納得。

この架線柱と思われるポールが写った大正時代?の京浜線鶴見川橋梁の写真(小生爺様撮影・以前公表済み)も参考までに掲載しておきます↓。原画が手札サイズ以下のため、拡大しても良くなりません。ご了承を。

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