書の歴史・日本編4/平安時代後期

平安時代の末期になると、
摂関政治の没落から院政を経て、
雪崩を打ったように公家社会から武家社会へ移行した。
これに伴い、
煌びやかな風雅な生活を由とした公家風の生活も、
力を基盤に、しきたりを度外視した武士風の生活へと変貌した。

平安初期、中期には書の歴史に名を残す多くの人物が輩出したが、
後期に入ると数少ない。
一般の歴史に名を残す人物の書を興味本位に挙げてみた。
この時代、私の興味を惹く人物は西行と待賢門院、
あとは源平の武人達、そして高僧達である。
彼らがどんな書を残しているのか興味を惹かれた。


待賢門院・結縁書の表紙

待賢門院(1101-1145)



西行を恋の虜にし、
それが西行出家の原因とも言われている待賢門院に興味が湧いた。
西行の恋歌の多くは待賢門院を偲んだ歌と言われている。
美貌と才を以って数々の浮名を流したことで知られる。
幼い頃から白河法皇の手元に置かれ、若くして法王の寵愛を受けた。
後に、法王の意向で皇孫の鳥羽天皇の中宮となる。
二方の御子が、崇徳天皇、後白河天皇である。
白河法皇の崩御以後、鳥羽天皇の寵愛を失い、早々に出家する。
多くの写経を残したとの文献があるが、
不思議な事に彼女の書を見つけ出せない。
唯一見付けた待賢門院のにおいのする書をここにあげた。
待賢門院の結縁書の表紙に書かれたものであるが、
待賢門院の書ではないと思われる。
もう一つ不思議なのは、
才女として知られた待賢門院も和歌などにも長じていた筈だが、
彼女の歌を見出せなかったことである。
もっとも、書も歌も本格的に探したわけではない。
待賢門院の女御である堀河、その妹の兵衛は歌人として名高く、
西行との贈答歌なども数多く残っているのに不思議だ。
百人一首に堀河の歌がある。
長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物こそ思へ


平忠盛・書状

平忠盛(1096-1153)
清盛の父。
いく度かの南海海賊平定により内昇殿を許され、
日宋貿易にも関係して平家繁栄の基礎を築いた。
白河法皇寵愛の祇園女御を賜ったが、
清盛の父は白河法皇との言い伝えがある。

鞆田庄訴事重下文謹


藤原定信・戊辰切

藤原定信(1088-1156?)
藤原伊房の孫。
行成、伊房、定信と継いだ世尊寺派の5世当主であり、
当代一の能書家と知られ、多くの色紙形、清書、揮毫の記録がある。
一切経を一人で書写したことでも知られる。
本願寺本三十六人家集の筆者の一人である。

千株松下雙峯寺一葉舟中万里


080藤原忠道・書状


藤原忠道(1097-1164)
平安時代後期の摂政・関白・太政大臣。
藤原忠実の長男。
白河院は寵愛した藤原璋子を忠道に嫁がせようとしたが、
才色兼備を謳いながら璋子の素行に兎角噂があり忠実・忠道はこれを断る。 
その為、白河院の不興を買い、不遇の時を過ごしたが、
白河院の崩御後、鳥羽天皇に召され関白に、
更に、その後も崇徳・近衛・後白河天皇の摂政・関白を務める。
稀代の謀略家とも言われる。
歌人、書人としてもその名を留め、
百人一首にも名を残す。
わたの原こぎいでてみれば久方の雲いにまがふ沖つ白波

昨日よりは御温気なとも

余談。
忠道の父忠実は忠道よりも弟の頼長を溺愛する。
忠道、頼長の対立が後の保元の乱の一因となる。
同じ時期に、崇徳上皇と後白河天皇の兄弟間にも不和があり、
崇徳上皇に頼長が後白河天皇に忠道が接近し、
それぞれが、源氏、平家の武士を囲い、
天皇家、藤原家、源平が骨肉で争ったのが保元の乱である。
三年後の平治の乱を経て、武士が台頭し、
貴族政治が武家政治に取って代るのである。

余談の余談。
先述の如く、
白河院はご自分の皇孫である鳥羽天皇の中宮に
璋子(待賢門院)をすえる。
この二方の御子が、崇徳天皇、後白河天皇であるが、
崇徳天皇は白河院の御子であるという風説があり、
鳥羽天皇は崇徳天皇を忌み嫌う。
白河院の崩御後、鳥羽法皇の寵愛は待賢門院から美福門院に移り、
崇徳天皇から皇位を僅か3歳の美福門院との皇子(近衛天皇)に譲り受けさせてしまう。
近衛天皇が夭折すると、
ご自分の皇子を皇位につけたい崇徳上皇の思いは果たせず、
鳥羽法皇の推す後白河天皇が皇位につく。
かくて、
待賢門院のもとで仲良く育った崇徳上皇と後白河天皇が対立し、
保元の乱のお膳立てが揃うのである。
この時期には、待賢門院は既に没している。


藤原頼長・因明論疏奥書



藤原頼長(1120-1156)
温厚な兄忠道と異なり、若くして和漢の書を読破し才気満々と称され、
父忠実の偏愛を受ける。 
一方で、悪左府と称されるほど酷薄であったとも言われる。 
保元の乱に破れ36歳の最期を遂げる。

才気よりも円満を感じる書風だ。



平重盛・書状


平重盛(1138-1179)
清盛の長男。
武勇、学問に秀で冷静沈着な人格者として一門の棟梁と期待されるが若くして病没する。

謹厳実直、かつ、才気が迸る書風である。

何等事候哉


源頼政・書状



源頼政(1104-1180)
本来、源氏の本流とされる。
保元、平治の乱で後白河法皇に付き、
平家政権下で源氏の長老として中央政界に留まるも、
平氏の専横に不満とし平氏打倒の兵を挙げるが敗れて自害する。
鵺(ぬえ)退治など、武勇の説話が残るが、
歌人としても名を残している。
歌人らしい柔らかさのある書の中に頑固一徹な芯の通りを見る。

来二十二日法勝時常行



平清盛・書状


平清盛(1118-1181)
忠盛の長男。
忠盛の妻が白河法皇に寵愛された祇園女御であり、
清盛は白河法皇の子との説もある。
保元、平治の乱で勝者となり、後白河法皇の信頼を得て、
太政大臣にまで上り詰める。
終には、政治権力を一手に握り、
後白河法皇を幽閉するなど平家の権力を維持したが、
1181年、清盛は熱病にて世を去る。
壇ノ浦に於ける平家滅亡は清盛死後、僅か4年後である。

余談だが、
佐藤義清(後の西行)、遠藤盛遠(後の文覚)、源渡は、
それぞれ同年輩であり、清盛の青年時代、北面の武士として同僚であったらしい。
源平盛衰記によると、
遠藤盛遠は同僚の源渡の妻袈裟御前に懸想し、
渡を殺すつもりが身代わりとなった袈裟を殺してしまう。
盛遠はこれを恥じて出家して文覚を名乗る。

文覚が袈裟御前の菩提を弔うために建てたと言われる恋塚寺、
これが伏見の上伏見、下伏見の二箇所にあるのが不思議だが、
恋塚寺、名前がまたロマンをそそる。
下伏見の恋塚寺には、文覚上人、袈裟御前、源渡の木像が並んで安置されいるそうだ。

進上之於件郷者


平清盛・平家納経願文


平家納経は、
平家の繁栄を願い一族郎等が一人一巻を分担して書写し厳島神社に奉納された。
この願文は清盛の自筆と言われている。
この納経の表紙から全文に至り善美を尽くし絶頂期の平家の栄華を物語っている。

一門の棟梁たる自信に溢れ雄々たる書風である。



木曾義仲・下文


木曾義仲(1154-1184)
頼朝に先んじ京に入り平家を追放し、征夷大将軍を名乗るが、
義仲は軍事的には天才だったが、政治家としては凡才だったのだろう。
後白河法皇の勘気を蒙るなど、政権を纏められず、
頼朝派遣の義経、範義軍に破れる。
頼朝とは従兄弟関係にあるが、
祖父の源為義と伯父の源義朝が対立以来、
父義賢が頼朝の兄義平に殺されるなど、
頼朝との因縁は深い。

平家物語の中に、
「色白う眉目(みめ)は好い男にてありけれども、起居のふるまひの無骨さ、
もの言ひたる詞続きのかたくななる(みっともない)事限りなし。
理かな、二歳より三十に余るまで、
信濃國木曾と云ふ片山里に住み馴れておはしければ、なじかはよかるべき。」
とあり義仲は粗野では有るが美男であったらしい。
また、義仲の愛妾巴御前は武勇の誉れが高く、
大の男をひねり潰す大力で知られているが、
同じ平家物語に、
「色白く髪長くして、容顔誠に美麗なり」
とある。どんな人だったのだろう、想像するだけでも楽しい。
義仲が討死すると、一人の尼が墓のある義仲寺に住み着いた。
この尼が巴御前であったという伝説があり、
義仲寺は巴寺ともいう。
この巴御前の書も見付からない。

一癖ある書風、片意地の強さを感じる。

可早如旧令安堵事



平宗盛 消息


平宗盛(1147-1185)
清盛の三男、母は清盛の正妻時子。
兄重盛、父清盛が相次いで逝去し、その後をついで、
平家一門の棟梁となる。
政治手腕に乏しく、愚鈍にして傲慢とも言われる。
殆どなす所無く、壇ノ浦に追い詰められ平家は滅亡する。
本人は生き永らえて助命を乞うが斬首される。。

穏やかな筆勢で、いかにも優しい貴族的な書風である。

おほいとのの申せと



寂然・一品経和歌懐紙


寂然(1117?-1182?)
寂超(為経)・寂念(為業)の弟で、
いわゆる大原三寂(常磐三寂とも)の一人。
西行と親しく、贈答歌が多い。
讃岐に流された崇徳院を見舞った記録も残る。

こころすむありあけのつきを
みるのみぞおいのねざめのともとこそなる


弁慶 書状


弁慶(?-1189)
武技に秀でていたが長ずるの及び学に志した。
義経補佐役として仕え、
その主従関係の厚さには多くの伝説が残る。
諸国に怪力弁慶に纏わる逸話も残る。

私が生まれて始めて読んだ小説は少年少女向けの「義経」。
霧の中、
五条の橋の上に白い衣装をはおり横笛を吹いて登場する牛若丸、
弁慶との立ち回り、欄干の上に立つ牛若丸、
その挿絵と共に鮮烈に記憶に残っている。



この書には、荒武者弁慶の面影は無く、
暖かい人柄を偲ばせる。

結願之臨幸殊勝


義経 書状



義経(1159-1189)
義朝の九男。
平家追討に一番の功があったが、
頼朝を牽制する後白河法皇の謀略に頼朝と対立し、
終に平泉にて生涯を閉じる。
義朝を父、常盤御前を母とし、
幼名を今若、乙若、牛若と言う三人の兄弟が居た。
牛若が後の義経、今若、乙若は歴史に殆ど名を残さない。
余談だが、私が歩いて行ける距離の所に今若の墓がある。
当時、源の姓を名乗る者は5万といた筈だが、
その中で歴史に名を留めているのは指折数えるほどだ。
義朝が平治の乱で破れ、
常盤御前は今若、乙若、牛若の命と引き換えに清盛の囲い人となる。
この絶世の美女も又波乱の人生を送ったのだ。

歯切れの良い筆さばき、人を惹き付ける字だ。

高野山阿弓川庄事子細承候了




西行 書状


西行(1118-1190)
これは数少ない西行の真蹟の一つ。
内容は、高野山が、
造営の為に課せられた木材の免除を清盛に申し入れて聞き入れられた事を報告している。
清盛と西行は同年であり、かって同じ北面の武士であった。
この時期、清盛は太政大臣の職にあったが、
お互いに旧友として接していたのであろう。
奥州に藤原秀衡を訪ねる途中に頼朝とも会っている、
面白い男だ。
保元・平治の乱、平家、奥州藤原の滅亡・・・・
彼の生存中にいろいろな出来事が有り世の流れが変わった。

西行は漂泊の歌人として名高く、勅撰集だけでも252首の歌を残す。
俗名佐藤義清、北面の武士であったが23歳にて突然出家する。
出家の理由は明らかではないが、
一説には、親友の突然死に無常を感じたとか、また、
待賢門院璋子への恋着とも言われる。
・・いにしへをこふる涙の色に似て袂にちるは紅葉なりけり・・
他、恋歌を多く作っているが、待賢門院璋子を偲んだ歌が多いと言う。


淡々と物語るように流れる筆致に深い趣を示す。


西行 一品経和歌懐紙


西行を語る時に、
平安朝に於いて最も悲劇的な生涯を送った天皇として知られる崇徳院を外せない。
先述したが、崇徳院は待賢門院が鳥羽天皇の中宮になった時、
既に白河法王の子を宿していた。 それが崇徳天皇だ。
白河法皇崩御の後、当然ながら鳥羽上皇は崇徳天皇を忌み嫌い、
天皇職を廃し、終には、崇徳院を讃岐に追いやる。
西行は崇徳院と年齢が近く、早くから和歌を通して顔見知りだったのだろう。
配流先の鬱憤やる方なき崇徳院を案じたり、
崩御後は、讃岐に庵を構えてまで崇徳院を偲んだ。
百人一首にある崇徳院の歌だが、
・・瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ・・
何かもの悲しい。
崇徳院は書にも通じていた筈だが彼の書は見出せなかった。
百人一首にある西行の歌。
・・嘆なげけとて月つきやは物ものを思おもはする
かこち顔がほなる我わが涙なみだかな・・

この書は、西行にしては流麗で美しい筆の流れだが、
芯は通っている。

ふたつなくみつなきのりのあめなれど
いつつのうるいあまねかりけり



伝 西行・山家心中集



西行は質素な身なりを纏う漂泊の歌人を連想するが、
実際は広大な荘園などを保有する裕福な身分で有った。
地方を行脚した時も、
例えば奥州では藤原秀衡の館に逗留するなど、
地方の有力者を訪れている。
又、京都にあっては、瀟洒な庵を幾つか構え、
吉野にも讃岐にも庵を構えていた。
先述の待賢門院の女御堀河と兵衛姉妹、待賢門院の皇女上西門院、
俊成、寂然など交流範囲も広い。

西行は、
一首作るのに一体の仏像を彫る、
という心境で歌を詠んだと言うから、
西行の歌への打ち込み方は尋常ではない。
謂わば、命がけの歌作りだったのであろう。

この書は西行と伝えられているが、
藤原定家の書とほぼ断定されている。


後白河法皇 文覚四十五箇条起請文跋


後白河法皇(1127-1192)
鳥羽天皇と待賢門院との御子。
先述の保元・平治の乱を始めた後、武家政権との共存を目指した。
鳥羽天皇の崩御後、五代34年にわたり院政を敷き、
老練な政治力を以って源平を操る。


(書の歴史・日本編5/鎌倉前期時代)

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引用文献
講談社刊:古筆から現代書道まで墨美の鑑賞
講談社:日本の書
東京書道研究院刊:書の歴史
講談社:日本書跡全集
大修館書店刊:漢字の歴史
平凡社刊:字統
平凡社刊:名筆百選
創元社:書道入門
平凡社:書道全集
講談社:現代書道全集
二玄社:書の宇宙
白州正子:西行
角田文衛:待賢門院璋子の生涯