続 麗江記1

4時にチェックアウトして昆明空港へ。
今日は、1年半振りの麗江を訪れるのだ。

空港への道路、その昔、日本の羽田空港、誰か外国のVIPが来るというので、
急ピッチで空港から都心への道路を整備した事が有ったように記憶しているが、
そんなレベルではない。
たったの一年間余りでの変わりようには目を見張る。
向って左側が国際線、右側が国内線、一階が到着、二階が発着、
しかし、近代的な建物の割に、いろんな標識は判りづらい。
係員の応対も今一つ、依然として官僚的な
「やってあげる」
風が抜けきらない。
待合室はベンチが不十分で、皆、真新しいピカピカの床に直に腰を下ろしている。
どこもここも禁煙なのに、吹き抜けの二階のレストランでは煙が渦を巻いている。
満席のレストランのどの席でも、トランプに興じている姿が如何にも中国らしい。

満員の機内は99%が中国人、
昔の農協の団体の様に大声で話しあちこち動き回っている。
そこここのボタンに触れたり、ベルトを締めなかったり、スチュアレスも手におえない。
隣の大柄の中国人も足を大きく開き、両手一杯に新聞を広げ傍若無人だ。
麗江空港に近づくと皆窓にへばり付く、始めて飛行機に乗った人が多いようだ。
それにしても、去年は疎らだった中国人、中国人の勢いを感じずにはいられない。


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麗江空港に彭さんと鄭さんが笑顔の出迎え、
忙しい中、社長みずからのお出迎えとは畏れ入る。
空港から麗江市内への道路も、
去年のガタガタ道が嘘のような高速道路並みに整備されている。
彭さんは運転しながら、携帯電話を一時も離さない。

去年、一ヶ月間入院した病院の辺りを通ると、
懐かしさなのか、生きていたと言う実感なのか、
思わず込み上げて来て目頭が熱くなる。 
死んでもおかしくないのを生き延びたのだから、感慨もひとしおだ。







そんな麗江、第二の故郷のような気がしてならない。

彭さんはその事故の時のツアーを主催した旅行社の社長だ。
私が一ヶ月の入院中、毎日のように顔を出して、心配してくれた。
入院して2週間ほど過ぎた時、彼は
「今日から、中医も併行しましょう、複雑な怪我、病気は中医が一番です」
と言いだし、躊躇する私を半ば強引に車に載せた。
中医と言うのは日本で言う漢方医、中国の町医者はこの中医が多く、
中国人の中医への思い入れ、信頼は日本人には想像出来ない強いものが有る。
私の留学先だった岳陽のキャンパスには、
常に5、6人の医者、看護婦を抱えて非常に整備された西洋医と、
医者一人に助手2、3人の中医が有ったが、中医が常に満員盛況なのに比べ、
西洋医の方は何時も閑古鳥が鳴いていた。
それから3日おきに中医に通う事になったが、
その際、何時も付添ってくれたのが鄭さん、
彼女は経理の担当らしく病院の支払いなどの手続きは彼女の任務だった。

私の通った中医は観光客のごった返す麗江の旧市街のま真ん中の
大通りを10mも路地を入ったところ、
入れ口は小さいが中に入ると、
大きな中庭がありその箱型の周囲にいろんな標札が掛かった部屋がある。

 

その一つのレントゲン室にまず案内される。
小一時間ほど待たされて写真を前にして何やら説明してくれるがサッパリ判らない。
写真を持って診察室へ、30がらみの先生がニコニコと写真と私の顔を見比べる。
「この先生はもう何代も続く中医の名家の先生です、若いけど有名な先生です」
と、鄭が教えてくれる。
先生、肯いて立ち上がると、
あちこちの引き出しから取り出した様々な粉を擂り鉢に入れゴシゴシとこね出した。
「これはどんな薬ですか?」
と問うと、ニコリとして何やら言う、
「秘中の秘、先祖代々伝わる秘薬だそうです」
鄭の通訳だ。
練り上がったどす黒い薬をタップリと塗った布を背中とアバラに張り付け、
胸が隠れるまで包帯を巻き付けた。
ひっきりなしに人が入って来る、相当な繁盛振りだ。
帰りがけに、3日分の薬を渡される、これを毎日取り替えるのだが、
時々、彭さんが自ら薬を塗って包帯を巻いてくれたものだ。

つづく
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