竹田岡城跡



50年振りの岡城、まったく記憶に残っていない。



一風趣のあるトイレ標識。





息次ぎながら坂道を登る。









幾度か足を止めて呼吸を整える。









海抜325mの台地、大野川の支流、稲葉川と白滝川が合流する間の舌状台地上に築かれ、
川岸からそそり立つその姿は如何にも「難攻不落」を物語る。
天正14年の豊薩戦争では島津の大軍が岡城を攻めたがわずか18歳の志賀親次(親善)は城を守り切ったと言う。
大友義統が秀吉に領地を没収されると志賀親次も城を去り、
播磨国三木城から中川秀成が入部し明治維新まで中川家の居城と成った。



九重連山が一望に収まる。















九重連山が眩い。



瀧廉太郎は少年時代を竹田で過ごし、
荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったと言う。



明治34年(1900)に中学校唱歌「荒城の月」を作曲、発表している。



「荒城の月」「箱根八里」「花」などの名曲を残したが23歳没とは信じられない。



丘の上の風は冷たい。

木枯らしや誰にでも故郷がある  安房守



傾山



祖母山











 軍神広瀬中佐は竹田出身、彫刻家の朝倉文夫もこの辺りの出身だ。

50年前に此処を訪れたのは、大学の同窓生のKの実家が竹田なのだ。
母手一つで育てた息子の悪友を温かく迎えて頂いた母御さんの姿が忘れられない。
Kとは寮生活を共にしたが、
もうひとりのMとKと私の三人が寮の三悪と呼ばれ遊び呆けていた。
そのKだけが8年間学校に在籍して遂に卒業出来なかったのだ。
その8年間で卒業出来なかったのは当時珍しいことで、
それが彼だけだったとは自慢にも成らない。
そのKも既にこの世に居ない。