南禅寺ぶらぶら記2

2009年3月23日
金地院・天授院
一旦、門前を出て湯豆腐で熱燗。














燃料を補給して、さあ、今回のメインイベントの金地院だ。


金地院は、
家康の側近で「黒衣の宰相」と呼ばれた以心崇伝が、
室町時代に足利義持創建した物を当地に移転改築した伝えられる。



まず明智門、



明智光秀が母の供養にと大徳寺に建立した物を明治初年に当地へ移築した。
戦いの連続であったであろう光秀にもこんな余裕が有ったのかと、変に感心する。
仲々しっかりした門だ。



明智門を潜り、
左回りに庭園を巡る。







庭園を上り詰めた所に東照宮、









家康の遺言により造られ、家康の遺髪と念持仏とが祀られている。
創建当初は日光東照宮と比されたと言うが、想像出来ない。 
確かにキメの細かい造りだ。
土佐光起の筆と伝えられる三十六歌仙の額が鮮やかだ。







開山堂の左右には十六羅漢が控える。





急な石段を下りて、飛び石に続く庭、







これぞ鶴亀の庭、小堀遠州作庭との裏付けがある唯一の庭と言われている。





方丈に掲かる山岡鉄舟の大額字、



堂々とし書だ、微塵の隙も無い。
方丈で庭を眺めながら案内人の到着を待つ。






方丈内は撮影禁止。
拝観券にあるお猿の絵、



これぞ長谷川等伯の「猿猴捉月図」。



長い間、自分の部屋にこの複製が飾ってあった。
その現物を自分の肉眼で直に眺める事が出来るのだ。
方丈は特別拝観、1100円がプラスされるが、
全く惜しくない。

部屋の中から、改めて庭を見る。



以前は深山幽谷を模した森の向こうに東照宮を拝する事が出来たのだそうだ。



大海原を示すのであろう白砂の向こうに、
亀と鶴が向かい合っている。



何がしかの緊迫感をも感じる。


そして、茶室「八窓席」、


(絵葉書より転用)

遠州が全知全能を傾けた茶室だ。


(一真さんのご好意で「建築知識社」より引用)

私は茶室や建築には全く縁が無いし知識も全く無い。
この床の間にもいろいろ工夫がなされており、
専門的な事を話し出したらきりが無いのであろう。
しかし、私は、まず、
この自然のままに劣化した色艶に拍手喝采だ。

数々の趣向、
材質は聞き漏らしたが一寸曲がった柱、
赤松皮付の床柱に黒塗框、


(一真さんのご好意で「建築知識社」より引用)


(一真さんのご好意で「建築知識社」より引用)

どれ一つとして同じ部材を用いていない。
窓の格子の大きさ、意匠も全部異なる。
なんだこの凝りようは。

下地窓、大きな勝手窓、沢山の窓、だから明るいのだ。


(一真さんのご好意で「建築知識社」より引用)


(一真さんのご好意で「建築知識社」より引用)

外縁のあるにじり口も珍しい。


(一真さんのご好意で「建築知識社」より引用)

気に入ったのは団地サイズの床の間、


(一真さんのご好意で「建築知識社」より引用)

私は、最近、床の間の無い西洋長屋に引っ越したが、
もう一度、床の間を持つのも夢ではない気がした。

申すまでも無く此処八窓席は、
大徳寺「孤篷庵」の茶室「忘筌」、
曼殊院の茶室「八窓軒」と共に京都三名席の一つである。


方丈の引き戸、これを何と呼んでよいのか知らないが格子模様の繊細さ、
これは日本人の美意識だ。
気に入った。



もう一度縁台に立つ。





通りへ出ると早咲き桜は満開だ。、



南禅寺門前の垂れ桜を見て、南禅寺門を入り直す。








門を入り直ぐ右手に天授院。



さっき三門から天授院を見下ろしたが、
今度は三門を見上げる格好になる。



室町時代初期に開山されたが応仁の乱等で荒廃し130年も放置されていたが、
江戸初期に歌人としても名高い細川幽斎によって再興された。





方丈前庭、
白砂の庭を苔に縁取られた菱形の畳石が横切る枯山水庭園、
切石を組み合わせた直線的な構成は小堀遠州の発案とされる。





菱形の石の並びが庭を引き締める。
四角の方向に並べたらさぞかし平凡だろう。










書院南庭
杉やカエデが鬱蒼と茂る池泉回遊式庭園で、
明治期に改修されたが、
一部南北朝時代のままの姿も残していると言われる。












長谷川等伯描く本堂襖絵は非公開である。
等伯晩年の作と伝えられる。




琵琶湖疎水に沿って歩く。
何回か京都へ来ているがこの光景は初めてだ。





これが音に聞くインクライン。

本格的なお花見は、あと、二週間くらい後だろう。
鴨川へ出た。







鴨を眺め、白鷺を眺める。
いい気分だ。

南禅寺ぶらぶら記2
金地院・天授院


 

安房守の旅紀行・日本編