近江記4
赤後寺

賤ヶ岳の南東に広がる小さな湖北の平野に
文字通り湧き出した小島のような小山がある。
標高200.6mの湧出山(ゆるぎやま)だ。
道幅と同じくらいの小川に沿って行くと突然小川が家に潜り込んでしまう。



そんな小道を縫うようにして湧出山南麓に辿り着くと赤後寺、
例によってややこしいが正式には唐喜山赤後寺、



日吉神社の境内寺である。









標高200mとは言え鬱蒼とした森を背負っている。







渡岸寺を出る時に電話を入れて置いたので、
もう世話人さんが先着している。

一対一で説明を受けるが何となく気恥ずかしい。
写真撮影は禁止。
(以降の仏像の写真はインターネットなどに公表された写真を引用した)

開基は奈良時代の行基といわれ、開運の仏様として名高い。
災い転じて利となす転利(コロリ)観音として親しまれ、
天寿を全うし、
何の苦もなくコロリと極楽往生できる仏として広く大衆に崇められている。
この部落は,
7月10日の千日会法要には
全国から訪れる老若男女で一杯に賑ぎあうそうだ。
ちなみに、
千日会とはこの日に参拝すれば千日分参拝したのと同じ功徳があるという法要です。

古来、秘仏として公開禁制だったが、
昭和44年に国指定重要文化財に指定され年に一日、千日会の日にのみ公開されていたが、
昭和59年からは随時公開されるようになった。

この秘仏と言うのはどのような経緯で生じたのか興味を持ったが、
発生時期や要因については判らない事が多いと言う。
少なくも勿体ぶってるのではないようだ。

赤後寺のご本尊は千手観音立像と聖観音立像。



いずれも像高180cm余りの檜の一木造だ。
千手観音立像は元々42本の腕が有った。
姉川・賤ヶ岳の戦火を避けるべく、村民たちが赤川に埋めて隠したのだが、
氾濫の折に千手観音立像は腕を流され、
聖観音立像は頭上佛を流されたと言う。
お顔の傷はその時のもだろうか、
如何にもおいたわしいお姿だ。
これを説明する案内人も心しか言葉をつまらせる。
「ほんまに痛々しいお姿で・・・」
苦しかった時代の檀家の思いが蘇ったのであろうか。



それにしても、前掲の全身像とこの像の違いは大きい。
一寸とした光線、角度でこうも違ってしまうのだ。
こうして見ると、この千手観音、濃艶だ。
じっと眺めていると、
渡岸寺の観音に比べこちらの観音方が生臭いかも知れないと思ってくる。
生臭いと言う表現は語弊があるが表情が活き活きとして、
一寸、悪戯っぽく、皮肉っぽく、
「あんた、元気でやってるんのかねー」
とか話し掛けてるような、
そんな親近感を覚えるのだ。



聖観音立像、
独断と偏見で云うと千手観音に比して平凡だ。
二枚目であるが底が浅い。
いや、深過ぎるのかも判らない。
勝手な事を云っているが、
私が今までに見た仏像の中で十指に入る事は間違えない。
絵でも写真でも、仏像でもお寺でも、山でも河でもそうだが、
それを眺める人間のその時の環境、状況でどんなにでも見方、印象が変わるものだ。


両観音の納まるお厨子が立派だ、ずしりと重みがある。
尋ねてみると、
安土桃山時代のもので、
彦根築城の総奉行であった木俣土佐守の寄贈だと言う。
私には良く判らないが、木目細かい細工に他に無い重厚さを感じた。
日光陽明門を請け負った宮大工はこの辺りの人で、
陽明門はここのお厨子を参考にしたものだそうだ。

手前に何体かの小さな観音がある。
これはご本尊が秘仏であった為その身代わりとして崇められた観音だ。
昔は33体有ったが今は8体が残されている。

案内人さんのしめくりの話は、
「昔は神も仏も無かった、ご本尊の足の裏に大明神と言う文字が書かれている」
とのことだ。

孝謙天皇の勅願寺であったとの記録も有る。
勅願寺は天皇や上皇の発願で国家鎮護、皇室繁栄などを祈願して創られたお寺で、
寺領が得られるなどの特権がある。
足利尊氏から荘園を寄付されて隆盛を極めたとの記録も有る。

帰りがけに見た枕石、



ご本体を川に埋めた時に流されないようにと上に載せた石だそうだ。
全く痛々しい。

村落に出ると、水路に沿った民家が長閑だ。





屋根の形に何とも云えない情緒がある。



大家さんかもしれないお宮、この橋は一興だ。

続く

 

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